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大地のご加護がありますように

4-6

「俺はいったい何なんですか? 何で俺なんですか?」
 かすかに声が震える。先ほどまでの冷静さなどとうの昔に失われた。
 人間は『死』を感じると、急に臆病になる。
 結局のところ俺も例外ではなく、生徒会長の詰めたい指の感触や、感覚のない自分の手足。背中に感じるひんやりとした手術台。それらがすべて、俺に『死』というものを感じさせた。
 『死』が目の前に迫っている。
 目をやれば、どす黒い黒い固まりが。その中にいる黒い人影が見える。何らかの幻影なのだろうが、今の俺には全く幻影には見えなかった。
 恐い。ものすごく恐い。
 今更になって恐怖心がわき起こる。だけど、俺の身体は全く動かない。自分の言うことを聞かない。
 自由を失われ、『死』を目前に感じる。
 二度、三度と会長は俺の首筋を指で撫でる。
 そのひどく細くて、白い指先。その指先が首筋を撫でるたびに、俺の頭の中では何度も雷が落ちる。何度も、何度も俺の目の前がクラッシュする。
 世界は、ひどく理不尽だ。
 何で、俺がこうならなきゃいけないんだろう。
 自分だけ、世界から、運から、見放された気がする。
 いったい、俺が何をやったんだ。普通に生きてきて、ちゃんと勉強もして、まっとうな道を歩んできたじゃないか。
 なのに、なのに、どうして俺ばかりこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
 思い出すのは、あの雪の日の入学試験だった。
 あの日のために、俺はそれまでの三年間、友情も、恋も、部活も、何もかもをフルスイングで投げ捨てた。これからのために。自分のために。
 だけど、その願いは、苦労は、すべて打ち砕かれた。
 体調管理ができていなかった。
 そう言われればぐうの音も出ない。それでも、理不尽だと思った。
 この日本で何十万人もいる受験生の中で、何で俺だったのか。いや、もしかして他にも同じような人がいたのかもしれないが、それでも何で俺だったのか。あの日だったのか。
 結果的に、俺はこの学園に入学した。
 何で、この学園だったのだろうか。
 日本全国津々浦々、絶対に他の高校だってあった。
 なのに、何でこの学園だったのか。
 この学園さえ来なければ、俺はもっと平穏な学園生活を送れていたのではないのか。何事も前向きに考え、ひたむきに大学受験へ向けて頑張ろうとしたのではないのか。青春を謳歌できたのではないのか。
 すべて。そう、すべて憶測でしかない。それでも、あり得ないことではない。
 でも、俺はこの学園に入学した。そして、こうなった。
 いったい、何の因縁があって俺はこの人と巡り会わなければならなかったのか。
 生徒会長――魔飢留麗――
 目前に迫る『死』。
 それに対し、俺は何もできない。
 ぐっと、会長が顔を近づける。薄いピンクの、柔らかそうな唇が俺の顔に迫る。
 そのまま、彼女の唇が俺の唇に押しつけられた。柔らかで、温かな感触が俺の唇に何度も何度も触れる。
 こんな状況なのに、俺の頭はとろけそうだった。彼女の舌が入ってくる。俺は、拒めなかった。
 永遠とも思えるキスが終わり、彼女は恍惚とした表情で俺を見つめた。
「理由なんて、もう死ぬあなたに言う必要なんてないわ。じゃぁ」
 ニィ、と笑みを浮かべ、指先で俺の唇をなぞる。
「バイバイ――」
 意識が、ぶっ飛んだ。



 真っ白な空間に、俺は浮いていた。
 いや、違う。
 その空間自体が、俺だった。
 手と足。腹と背。頭と尻。その区別が、全くなかった。
 俺という名の空間。目の前に広がる、白き空間自体が、俺。
 先ほどまで感じていた恐怖心が、一層強まる。
 孤独。
 空間が俺で、俺が空間。
 そこには誰もおらず、何も見えず、何もなかった。
 だから、寂しかった。恐かった。
 そんな真っ白な空間に、ふと何かを感じた。温かで、どこか優しさをにじませるものだった。
 ぽつん、と、誰かが立っていた。さっきまでたった独りだったこの世界に、他の人間が現れた。
「誰だ」
 思わず声が出た。かなり棘のある口調だった。しかし、口もないというのに、声が出るだなんておかしな話だ。となると、目がないのに見えているのもおかしいか。いや、それ以前に、口と目って何だ?
 どうやら頭が混乱しているようだ。って、頭って何?
 ああ、もう! 考えても埒があかねぇ。
 とりあえず、目の前にいる人物だけに思考を集中させることにしよう。
 そこで、俺はあることに気づいた。
 この人物を、俺はどこかで知っていた。見覚えがあった。
 思い出せ!
 俺は必死に考える。何か、何かが俺の心の奥に引っかかっている。後少し、後少しで思い出せるんだ!
 ふっと、脳裏に、懐かしい風景がよぎった。
 世界が、一転した。
 真っ白だった世界が変わった。白だったところは、黄色や青、緑、赤、などの様々な色に塗りつぶれた。
 何もなかった場所には、木や川、山や雲が現れた。
 そして、小高い丘に、俺と『彼女』がいた。
 この風景は、まさしく新見山の風景だった。昔、俺がセミ取りに何度も足を運んだ新見山だった。
 生徒会長が『魔』を使ったときも、俺はこの風景を見た。懐かしい思い出が、次々と蘇る。
 『彼女』がいた。
 ハッキリと思い出した。
 あのとき、急に世界が眩しくなって、そこに『彼女』はいた。
 だけど今は、ハッキリと俺の目の前にいた。すらりとした体型。目は澄み切った川のように曇りがなく、髪は日の光を浴びて真っ赤に燃え上がっている。少し年老いているように見えるが、それでもまだ三十代後半にしか見えず、なのにどこか威圧感を感じる。そして、面影が完璧に魔飢留姉妹とだぶっていた。
 俺の方に『彼女』はニッコリとほほえみかける。俺は『彼女』と間合いをしっかりとり、警戒した。
「怖がらなくて良いわ」
 『彼女』は優しい笑みを浮かべる。
「誰?」
 思わず、俺の言葉から棘が消えた。それは、あまりにも自然で、その言葉を言い終えた後、俺ははっと口をつぐんだ。
 そんな俺を見て、『彼女』はふふふと笑った。どうやら、この人の笑みは人の警戒心を解く効果があるようだ。
「うっすらとだけど分かってらっしゃるんじゃなくて? まぁ、ちゃんと自己紹介はしましょうか。私は麗と爛の母親、魔飢留凛(まきる りん)よ。宜しくね、大地君」
「な、何で俺の名前を」
「ふふふ」
 『彼女』は小さく微笑む。
 とりあえず、今のところはそんなことは問題じゃない。
「ここはどこなんですか? えーっと……」
「凛でいいわ」
「凛さん。あなたは何か知ってるんじゃないんですか?」
 すっと、『彼女』――凛は目を細める。その眼差しは、この世のすべてを知っているような眼差しだった。
「ええ、知っているわよ。ここがどこなのかも。あなたがどうなっているのかも。そして、すべての狙いも」
 新見山の山頂。樫の木に凛は腰掛けた。
「とりあえず、あなたも座ったら?」
 手招きされて、俺も樫の木の元に座った。植物の匂いが広がる。それをめいっぱい吸い込んで、大きくはき出す。
 大きな雲が、ゆっくりゆっくりと流れている。青い空はどこまでも透き通っていて、風はそよそよと吹き、太陽の暑さをやわらげてくれる。
 静かに、本当に静かに時間は流れていた。なんだけど、俺には一分が十秒に、十分が一分にしか感じられない。一瞬で、世界が流れている。
 その時、俺は理解する。ここは現実の世界でないことに。そして思い出す。自分自身の真っ白な世界。真っ白な世界の、自分自身。
 はっと顔を上げると、微笑みを浮かべた凛と目があった。
「さて、お話を始めましょうか」
 ぽつりぽつりと、凛は言葉を紡ぎ出す。
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