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大地のご加護がありますように

4-1.5

 今でも、ハッキリと思い出すことができる。
 あの人のぬくもり。あの人の優しさ。
 あの頃は、私は何もできなかった。
 今のように、自分が思ったことをすぐに実行することなんてできなかったし、だいいち自分の意見すら述べることができなかった。
 だから、一人寂しく、ぽつねんとしていたのを思い出す。
 その日は、みんなで公園で遊んでいたんだ。
 家の近くの、大きな公園。確か、名前は『臨海国立公園』だったはずだ。海に面していて、潮風が心地よく吹いている。様々な遊具に、陸の方には小高い丘があって、そこには様々な花と木が植えてあった。
 そこに、みんなで集まったんだ。学校から帰り、家に着くやいなやランドセルを放り投げて、すぐに家を出た。
 公園に着いたときにはすでにみんな集まっていて、すぐに遊び始めた。
 最初は、男子が持ってきたボールでドッチボールをやったと思う。私は運動神経が全くなかったので、開始早々当てられて外野に行ったはずだ。その後は、一度もボールに触れることもなく、味方の全滅で負けたんだっけ。
 それでも、面白かったと思う。だって、私は退屈しなかったから。みんなが、ボールを当て合うのを見るのだけでも面白かったから。
 その後も、様々な遊びをしたはずだ。一人一人、やりたい遊びを言って、やったんだったけな。
 でも、私だけは言えなかった。
 何がしたいの? と聞かれたが、私は俯いて答えることができなかった。
 そして、今度はかくれんぼをすることになった。
 とりあえず、私はこの広い臨海国立公園の丘――花や木が多く植えられているところ――に隠れることにした。
 あちこちで、見つかった子がきゃーと声を上げている。私は場所を移しながら逃げ回った。
 気が付いたら、日が傾いていて、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。そう、逃げ回りすぎて迷子になったのだ。
 そんな状況に気づいて、私は急に心細くなった。すぐに、家に帰りたくなった。
 だけど、私は迷子になってしまったのだ。家がどこだか分からないし、だいたいここがどこなのかも分からない。
 がむしゃらに、当てずっぽうで私は走り回った。そうしたら、家に帰れる気がしたから。
 涙で視界がにじむ。腕で涙を拭き取る。足がもつれて転ける。膝小僧を擦りむいて、血がにじむ。さらに、涙が溢れてくる。
 それでも、私は走った。家に帰るために。
 辺りはもう、すっかり暗くなっていて、街灯が不気味に道路を照らしている。
 人気は全くなく、車の往来もない。民家もないし、あるのは花と木。まだ臨海公園内にいるのは一目瞭然だが、パニックに陥っていた幼い私がその事実に気づくわけもなかった。
 臨海公園内にはあちこちに案内の看板があるのだが、幼いが故に読めない。そして、暗いから見えない。
 そう、その時の私は、見知らぬ地に迷い込んだのと同じ状況だったのだ。
 だだっ広い臨海公園は、6区画に分けられており、いつも同じ場所で遊んでいた私は他の区画など知るわけもない。
 真っ暗な闇。そして、聞こえる波の音。
 いつもなら絶対に気にしないような音さえも、幼い私の恐怖心をさらにわき上がらせた。
 膝は痛むし、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。気が付けば、服も泥だらけになっていた。
 体力だって、そんなに多くない。私は大きなケヤキの木の下でうずくまってしまった。
 もう、動けない。
 ぜぇぜぇと息をして、私は顔を膝に埋めた。
 このまま、私はどうなってしまうんだろう。
 もしかして、本当に家に帰れないかもしれない。
 不安感もわき上がり、恐怖心とともに私の心を圧迫した。
 涙が、また溢れ出る。嗚咽を止めることができない。
「う、う、うぇぇーん」
 と、私は力無く泣いた。いつまでもいつまでも目からは涙が溢れ、鼻水もだらだらと流れる。
 どのくらいだっただろうか。
 泣き疲れたのか、気が付けば私は眠っていた。
 そして、傍にぬくもりを感じた。
 私は、誰かに抱きかかえられていたのだ。
 温かな腕で、私は包まれていて、安心感のせいか、体がひどくだるく感じた。
 その人は、微笑んで何も言わなかった。
 ただ、私を抱きかかえて、優しく頭を撫でてくれた。
 さっきまでの恐怖心とか、不安感とかが一気に吹っ飛んで、幸せな気持ちがわき起こる。
 傍にいるのを感じるだけで、幸せになれる。何も言わず、ただ黙ったまま私の頭を優しく撫で続けているだけなのに、私は言葉で伝えることのできない、ストレートな『彼女』の気持ちに気づくことができた。
 安堵感。そして、幸福感。
 急な眠気を感じ、私の瞼は再びゆっくりと閉じていく。
 突然、私は言うに言われない消失感を感じた。このまま、眠ってしまうと何かを失ってしまう。そんな感じがした。
 でも、幼い私にそんなことが分かるわけもない。瞼は変わらずゆっくりと閉じていき、私の意識は深い闇に飲まれた。


 ハッと、我に返る。
 辺りは真っ暗で、時計を見ると午後八時を指していた。目の前には、取りかかっていた仕事の書類が何枚か散乱していた。
 どうやら、仕事の最中で寝てしまったらしい。
 ぐっと背伸びをして、彼女は体をほぐした。
 迂闊だった。まさか、彼女の接近がこうも早く起きてしまうだなんて。
 眠気覚ましに飲むコーヒーをコップに注ぐ。これからの予定を、頭の中で素早く組み立てる。
 まだ、時期尚早だと思って調査程度で行動は抑えていた。でも、これからもそれを続けていたらきっと失敗してしまう。手遅れになる。
 革張りの椅子に深く腰掛け、コーヒーを一口含む。苦い味が、舌の上でじんわりと広がる。頭がしゃきっとしてくる。
 また、具体的な行動に移さなくてはならないな。
 このままじゃ、彼の心が安定してしまうおそれがあった。それじゃあ、チャンスをふいにしたのと同じだ。
 安定は、成功を生まない。成功を生むのは、孤独と激情だけ。彼に求めるのも、それだけだ。
 引き出しから彼女は一枚の写真を取り出した。そこには、二人の幼い少女と、一人の女性が写っていた。
 計画は、絶対に成功するんだ。いや、成功させるんだ。
 月の光が、青白く室内を照らす。
 今までのような、余裕のある笑みが、彼女の顔に浮かぶことはなかった。
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