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彼と彼女の1500という数字

第9話 参ったね、ホント

 いや、参ったね。ホント。
 早速あの女に喧嘩売ったのさ。ちょいとスパートして、抜き際に笑顔でお先にぃ、って言ってやった。そしたら、ものすごい勢いで追いかけてくるんだよね。もう、凄い気迫。
 俺はこのままいったら、きっと彼女はばてると思ったんだよね。ほら、女って体力無いの多いでしょ。まぁ、この女はかなり体力ありそうだったけど、流石に俺よりかは無いって思ったんだよね。
 そしたら、コイツ、めっちゃ速い。
 いや、普通に速いならいいんだよね。異常なの。一気に抜かれた。しかも、「お先って何が?」って言いながら。
 腹が立ったっていうより燃えたね。おお、やる気か、コイツ、って感じ。俺って流されやすいから。
 何とか食らいつく。すぐ横。あーあ、俺がインだったら楽勝に抜けてたのに。残念ながら俺はアウト。つまり外側。不利なわけよ。
 二、三周目までは余裕だったね。彼女、かなり速かったけど。でも、五周目頃になると苦しい。めっちゃ苦しい。
 きっと、彼女も苦しそうな顔してるんだろう。ここで、一気に抜いたらもう俺の価値だぜって思って、少しスピードあげて彼女の顔を見たんだ。もう、ショックだったね。汗すらかいていない。余裕の良郎君。楽勝って顔。
 もう、勝つことよりついてくことで精一杯だったね。無理ですよ。化け物ですよ、この女。
 六周目にはいっても、未だに余裕。オイオイ、俺、一八〇〇メートル、全力疾走だぜ? 何でこんなに余裕なんだよ。
 コーナーに入る。彼女な大きなスライド。綺麗なフォーム。なびく髪。そして、時折漂う女のにおい。オイオイ、反則だろ?
 俺はというと、激しい息。したたる汗。滅茶苦茶なフォーム。そして、時折聞こえる部長の絶叫。ってオイ、部長、何やってるんですか?
 直線に入っても、俺は抜けないまま。直線にはいると、彼女、やけに速いの。びびるよ。こんなの非常識だってね。
 しかも、辺りを見渡すと、ギャラリーでいっぱい。わぁ、みんな俺たち見てるよ。そりゃそうだろうな。ほら、トラックの脇にいるあの子、ストップウォッチ見てびっくりしてるもん。あー、向こうでも計ってやがる。しかも、団体で見てるし。そんなに速いですか? 俺たち。
 しかし、神様も酷いです。人道的ではないですね。だって、こんな大衆を前に、俺はこのか弱そうで、実際化け物だった女に負けそうなのだから。大恥ですね。惨めですね。情けないですね。
って、悲観になっている場合じゃない! 実際、本当にそうなりそうだった。俺はさっきまでは、ずっと横に並んでいたのだが、今は少し後方。つまり後ろ。
 ヤバイと思ったね。
 そのまま九周目に入ったところで、彼女の息づかいが聞こえてきたの。おお、バテてきてるぞって思ったね。
 でも、二七〇〇もあんなスピードで走ってたからね。今ごろ疲れてくるだなんて、本当に化け物。
 俺は前に出ようと思ったね。だってもう体力全然無いもん。ラストチャンス。ここで抜けば彼女、バテてるから勝ったも同然だろう。
 そしてコーナー。俺は少し外からスライドする。体を少し内に傾けて、足はできるだけ大股に、一本の線の上を走るように交互に繰り出す。太股の筋肉が震え、ふくらはぎが固くなったり柔らかくなったりする。これは筋肉の伸縮のせい。熱がこもる体は、体温を下げるための汗が大量に噴き出し、一歩進むごとに辺りにまき散らされる。
 心地よいと思った。
 走るのも悪くないと思った。
 気がつけば、体の一部が彼女と当たっている。これは体を傾けているからだろう。彼女は肘で俺を突いてきた。あまり痛くないがバランスが悪くなる。少しつまずきそうだ。こんにゃろ、何しやがる!
 俺は何とか我慢する。女にやり返すようなことはさすがに俺の中では道徳的に違反だった。そんなことするのは良くないし情けない。まぁ、相手が男だったら別だけど。ほら、駆け引きってやつだよ。だからオッケー。
 カーブを抜け、直線に入る。俺がほんの少しリード。トラックの周りにはなんかギャラリーが大勢いる。コラーッ! 見せ物じゃねぇぞ!
 「よっ! 熱々ランナーズ!」と、冷やかす者がいた。同じクラスの小野だ。ったく、意地のぶつかり合いを冷やかすんじゃねぇよ! って叫びたかったがあいにく、そんな声が出る程元気じゃない。たぶん、この直線で勝負は決まるのだから。
 俺はスパートをかける。肩の辺りには彼女の気迫のこもった視線を感じる。ああ、肩に穴が開きそうだな。
 眼力、肩をうがつ。
 ……はは、全然おもしろくないか。その時だった。
 ビュッと、彼女が横に出た。その横顔は、今まで見た女の中でも、一番キレイで、そして格好良かった。
 それは一瞬だったのだ。
 俺はプールサイドにへたり込む。あーあ、負けちまった。部長が気を利かせてタオルを貸してくれた。あー、ありがたいのだがこの臭い、何とかなりません?
 ヒィヒィと呼吸していると、あの女がこっちに向かって歩いてきた。なんだ? 何かあるのか? 彼女は俺の前で立ち止まると、まさに仁王立ちって感じで座っている俺を見下ろし少しうわずった声で言った。
「あんた、何なのよ」
 汗が、一気に噴き出た。走ったせいではなく、別の意味での汗だった。
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