彼と彼女の1500という数字
第7話 その日のグラウンド
その日、第一中央高校の第三グラウンドは殺気立っていた。
そのグラウンドで練習している者達は皆、そのさっきに気付き、グラウンドのトラックに目を向ける。そこでは、二人の男女がものすごい速さで走り、競い合っていた。
そのスピードはすさまじく、二人より先に走っていた人たちが、何事かというような感じで、走るのをやめていた。少しのざわめきが、グラウンドで起きていた。
このような状況がさっきから十分程続いている。トラックの内で、ストップウォッチを持った中島が驚きを隠せないような表情で見ている。口はパクパクとしていて何かを言いたいのだけれど言えないような状態のようだ。
あの、計算高く、それでいて格好いい長谷川さんが、あんなに意地を見せて並んで走っている男の子と勝負してるなんて、と、中島は今まで自分の中にあったクールな長谷川像が大きな音を立てて崩れていくことを感じた。
しかし、そんな中で、時にクールで、時に熱血の長谷川に、新たな憧れと敬意が生まれてくることも感じた。
「あぁ、長谷川さん……。あなたは最高です。私の目標です……」
自然と、中島の口元がゆるんでいき、よだれが垂れてきていた。辺りの人がその様子を見て、なにやらひそひそと話していたが、中島は気にする様子もなかった。いや、単に気付いていないと言うべきか。
だが、目の前に長谷川ともう一人、男が映ったところで中島の目の色は変わった。その色は、裏切られたかのような、絶望した目だった。
あの、真面目な長谷川さんが、男と一緒に走っている。たったそれだけの事実だったが、男との付き合いの経験のない中島に大きな精神的ショックを与えるだけには十分な事実だった。
もともと、中島は男に免疫のないことをコンプレックスに思っていた。友達は次々と彼氏を作り、自分だけが取り残されていくことに劣等感を持っていた。
しかし、中島は男が怖かった。小学校・中学校と中島は女子校だった。しかも、中島はまさにお嬢様育ち。父親は某財閥の元会長、今は国会議員。母親は元大物女優。中島を産んだときに引退したらしいが、今でもその権限と存在感は抜群らしい。
そんな二人から生まれたのだから、もちろん中島はちやほやされて、そして手厚く守られて育った。つまり、彼女はかごの中で育ったも同然なのである。
しかも、父親は全く、娘に他の男を近づけさせず、使用人はすべて女という徹底ぶりをはかった。彼女は高校まで、男を知らずに育ったのだ。
おかげで、彼女は使用人の中で育ったこともあり、物静かで、おとなしい子になった。
いつもみんなの輪の中にはいるが静かな少女。凛としていて、おとなしい少女。それが中島だった。
だが、そんな表面とは裏腹に、中島は目立つ子に憧れを持っていた。熱血な子には敬意を払っていた。クールな子になりたいと思った。それらはすべて、自分が持っていない面だった。持ちたいと思う面だった。
だから彼女は、陸上を始めた。理由は簡単である。走ることがなんだか熱血で、格好良くて、クールだからである。本当にそうなのかはかなり疑わしい。
けれど、なかなか中島は物静かなままだった。当たり前だ。のほほんと陸上をやっていてもその性格が変わるわけがない。
そして、中島の前に長谷川由美が現れた。
それは、中島にとって、神の降臨にも等しいことだった。
長谷川と出会ったことで中島に「プチ闘志」とやらが芽生えた。プチなのは本当に「闘志」なのか定かではないからだ。
元々、中島は運動神経が良かった。なので、あっという間に一五〇〇メートルと四〇〇メートルで県で一番になった。
あまりにもアッサリとなってしまったので彼女はまだまだおとなしく、静かなままだった。
だが、長谷川がそこに登場する。
気がつけば、その長谷川に一五〇〇メートルのトップが奪われてしまったのである。流星のごとく現れ、自らのチャンピオンベルトをかっさらっていったのである。
もちろん、中島は悔しかった。今まで、感じたことのない思いだった。そして、それより勝る想いがあった。長谷川への憧れである。
そう、中島は長谷川を見た瞬間、何らかのインスピレーションを得たのだ。「この人こそ、私が追い求めている人だわ。そう、神よ! 私の神よ!」
ハッキリ言って、中島は変である。長谷川との出会いというものは、そのままの勢いで新興宗教などを立ち上げる程のパワーを中島に与えることとなった。もう、かなりのエネルギーである。
おかげで、今の彼女は少々やんちゃになり、良く喋るようになった。他人に話しかけるなんて昔の中島にはできなかったことだが、今では簡単にできるようになった。これもすべて、長谷川のお陰である。中島は長谷川に感謝の思いで胸がいっぱいだ。そりゃもう、いっぱいいっぱいだった。
だが、その中島の中での神が、今、男と並んで走っている。自分の嫌いな男というものと走っている。中島は今まで味わったことのない様なショックを受けた。
「ああ、やはり、男という壁は乗り越えなくてはならないの……」
中島は決意する。絶対に、男嫌いを直すと、彼氏を作ってやると。と、まぁ極意は長谷川さんから教えて貰おう、なんて事も考えていた。
ちなみに、中島の新たな夢は、長谷川とその彼氏とのWデートだったりする。
長谷川が少しリードしてきた。中島は大きな声で叫んだ。
「長谷川さん頑張ってぇ!」
大声をあまり出さない彼女の声は裏返り、かなりハスキーな声だったが、中島は嬉しそうな顔をしてその様子を見ていた。
プールから小柄なキャプテン、大橋が出てきた。大橋はグラウンドに出るやいなや西田を見て驚いた。あまりの速さからではない。西田があれほどのスピードで、真剣な顔をして練習に励んでいることに感動したからだ。
大橋はよく、すぐに感動する。
悲恋の映画や、子犬などが出てくる映画、スポ根系の映画などを観ると、始まってすぐに泣いてしまう程のレベルだ。
これには深いわけがある。まぁ、一番関係しているのが大橋家の血筋だろう。
大橋家の血筋は、ハッキリ言って凄い。彼の曾祖父は、戦時下、まだ政党政治がなんとか行われていた頃、とある大臣の秘書だった。熱心に彼に仕え、大臣が大きな法案を通せば、涙ぐんで喜び、大臣が軍事クーデターで殺されたときには、三日三晩泣き続けるような男だった。
大橋の祖父の妹も凄かった。彼女は、戦後まもなく行われた選挙で当選した女性議員の、これまた秘書をやっていた。その手際は凄く、その議員が当選したのも、すべて彼女のお陰といえるくらい凄かった。しかし、彼女はかなり情を持っている女性だった。
ある日、道で倒れている男を助けたところで彼女の人生は狂った。彼女の情で、彼女はすべてを失ったのだ。見事に、その男に騙され、ボロくずのように捨てられてしまった、というベタでありそうな話なのだが。
更に、大橋の父親は大学の助手である。これまた微妙なポジションである。助手といえば、教授等を助ける、彼らに協力するといった立場の人間である。
現に、彼の上司に当たる教授が先月、ノーベル化学賞を受賞していた。彼には全く関係のないことだ。ちなみに、レポートで学会に提出したのは教授で、その研究で実験を実際に行ったのは彼である。皮肉なことである。
そろそろお判りいただいただろうか? そう、彼の血筋はすべて、裏で大物を支え、情で動き、そして散っていったのである。おかげで、人間が失敗していく映画などを見ると、まるで自分たちを見ているようで彼ら、大橋一家は常に涙を流すのである。哀れだ。
だから、西田があれだけ真剣に練習しているところを見ると、涙を流さずにはいられなかった。
大橋家の血筋が、いつの間にか感動しやすい体質を作り上げたというわけである。なので、大橋は真剣に練習する西田を見て、泣いた。
あの、入部当初はしっかりしていたが、早くもサボるようになってしまった西田。しかし、そんな西田も、俺の言葉で練習するようになった。俺の熱意が伝わったんだ、と大橋は大声で叫んだ。
周りの人間はそんな大橋を見てひそひそと何か話している。明らかに変人扱いされていることが分かる。
しかし、気がかりなことが一つあった。あの隣で走っている女は誰だ? 大橋が見る限り、かなりの美少女だ。たぶん、同じ部の川辺なみの美少女だと思った。
西田め、いつのまにあんな可愛い美少女をパートナーとして手なずけているんだ、と大橋は少しの怒りを覚えた。
大橋は常に、少し常識を逸脱した考えを持っていた。なので、女と一緒に走っている西田を見て、あの女は西田に手なずけられたと思ってしまっていた。くそぅ、西田め、後でかわいがってやるぜ、なんてことを頭の中で考えていた。
ついでに、そろそろ俺も彼女が欲しいなとも思った。彼は年齢=彼女いない歴である。
気がつけば、西田が少し女に負けている。イカン。そんなことは許さんと大橋は思った。そして大声で叫んだ。
「負けたら承知せんぞぉぉぉ!!」
辺りの人間は、口を開けたまま大橋を見ていた。大橋の声は、グラウンドの隅々まで響き渡った。
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