忘れられないことがある

モクジ
 忘れられないことがある。
 それは、たった一つのことではないし、沢山あるわけじゃない。
 ただ、自分の脳裏に焼き付いた『何か』を、私は忘れられないでいる。
 例えば、雨の日の土の匂い。しとしとと降る雨の中で、私はただ呆然と立ちつくしていた記憶がある。
 何か考えていたのかもしれないし、何も考えていなかったのかもしれない。
 でも、私が覚えているのは、春の雨の日の土の匂いだけ。
 ふっとよぎる記憶に、私は思わず涙を流す。
 雨はキライだ。
 降り注ぐ陽の光を遮り、どんよりとした天気の下で、私は『涙』と同じものを浴びているみたい。
 世界の涙だ。
 そう思い始めたのはいつ頃からだったろうか。
 ただ、雨の日には哀しさが満ちあふれているということに、私はハッキリと気づかされた。
 哀しい匂いだ。
 世界の涙を吸った土。その土の匂いは、きっとそうに違いない。
 だからだろうか、私の脳裏から春の雨の日の土は離れない。離れてくれない。
 雨の日、私は必ず思い出す。
 哀しい哀しい土の匂いを。どこからともなく、浮かび上がる、あの土の匂いを。

 忘れられないことがある。
 恐らく、自分の中に残る腫瘍。俺はそれを取り除くのに、躍起になっている。
 自分の心を蝕むその『記憶』を、俺は取り除きたい。
 夏のアスファルトの熱さだ。
 陽炎がのぼるアスファルトを見て、俺は何とも言えない虚脱感に襲われる。
 きっと俺は、死んでるも同然なんだ。
 何のために生きているのか分からない。ただ、機械のように体を動かし、毎日を過ごしている。
 人形だ。
 世間というものに操られる人形。それが俺だ。
 虚しさで、俺は満たされる。体一杯、俺は虚しさで埋まっている。
 誰も気にしない。世間にとけ込み、人形の隊列を組んでいる俺。
 夏のアスファルトの熱さを身に感じながら、俺は俺が人形だと気づかされる。
 虚しさで、俺の心は押しつぶされる。
 
 忘れられないことがある。
 もしかしたら、忘れているのかもしれないけど、ぼんやりとした意識の中、不意に浮かび上がるものがある。
 僕の頭の奥底に、眠っているようなその『記憶』に、僕は日々、心のどこかで怯えているのだと思う。
 不意に思い出すのは、秋風に揺れる落ち葉。かさかさになった茶色の葉が、秋の風で舞っている。僕はそんな中で、突っ立ていたのだと思う。
 きっと、僕は何にも覚えていないんだ。けれど、そこのとだけは覚えている。
 矛盾しているのは分かっている。だけれども、僕の中にあるのはそのことだけで、そして、何にもないんだ。
 秋風は、寂しい。
 青々と茂っていた葉は、秋風に晒されて、醜い茶色の葉へと変わっていく。
 風に乗って舞い落ちる葉は、別れを惜しむかのように、ゆっくりゆっくりと地面に落ちていく。
 自然の別れだ。
 その光景を見て、僕はそう思ったんだ。
 世界には、寂しさが満ちあふれている。僕がこうしている間にも、きっと世界じゃどこかで寂しさが生まれているんだと思う。
 秋風に揺れる落ち葉。僕の心を捉えて離さない。
 こうして、僕は寂しさに満ちていく。いつまでも、いつまでも。

 忘れられないことがある。
 きっと、誰にも見とがめられないような、そんなことを忘れられないのだ。
 何にも感じない。虚無の空間に置いていかれた自分。
 冬の凍った川。
 閉じこめられる自分。どこにも行けない自分。
 寒さにただ体を震わせ、間近に迫る死に怯える。
 冷たい氷の下で、自分は何を考えるのだろうか。
 どこにも行けない。どんよりとした天気の下で、光すら来ない氷の下で、一体何を考えるのだろうか。
 死だ。
 近寄る死を身に感じる。怯えることも忘れて、いつかは死に魅入られる。
 歌を口ずさむ。死の歌だ。何のため、誰の為とも言えぬ歌を歌う。
 死が近い。だけど、そのことに『愛』を感じる。
 冬の凍った川に自分はいる。
 氷に映る自分の顔を見て、死を感じられる。手を伸ばせば、死がつかめる気がする。
 ほら、つかめた。手を伸ばした先に広がる、楽園。

 忘れられないことがある。
 きっと、心の奥底にしまってあるものだ。
 きっと、二度と開くことがないものだ。
 きっと、知ってはいけないものなのだ。
 今日もまた、世界は満ちている。
                                                    2006年10月30日





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