僕らの学園
最終話
僕は何のために教師をやっているのだろう。
誰のため?
この問いに答えはない。誰のためと特定することはできない。
僕は少なくとも、不特定多数の人々の為に教壇に立っている。生徒たちの未来のため、この世界の未来のため。とりあえず教師という役職は世界の基礎を作り上げている。大切な役職だ。僕は今、その大切な役職である。心を傷つけられ、全てを閉じてしまった子供たちを教えている。
僕は何をすべきか?
全ては生徒の為に
全ては世の中の為に
結局、この職は自己犠牲なのだ。自分を犠牲にして、新たな人々を育てる。それが、教師たちの使命なのである。
僕はこの職を全うしたい。できればずっと続けたい。この学園でずっと続けたい。ここの生徒たちを育てたい。由喜さんや校長先生たちと一緒に過ごしたい。
しかし、この希望は願わない。僕はこの学園を去らなければならない。
なら、またこの学園に帰ってきたい。何年後でもいい。いつの日か、必ず帰ってくる。一回り、二回り大きくなって。更に大人になって。心を磨いて。
そして、必ず再会する。この森に。この学園に。由喜さんに。忘れないさ。この学園での思い出は。なんていったって僕を少しでも大きくしてくれたからね。そして、これからも絶対にたくさんの思い出を作る。その為に、僕は帰ってくる。
目が覚め、窓の外を見た。朝靄の向こうから陽がさしてくる。その暖かな陽はなんだか僕の心をホッとさせた。
とうとう後はこの学園を去るだけになった。たったの五ヶ月だったけどこの学園での生活は楽しかった。そして僕自身かなり成長したと思う。僕は自分の荷物をまとめながらしみじみ思った。その時、僕はふと思いついた。
「あの秘密の場所に行ってみよう」
由喜さんに教えてもらって以来、何度も行くようになったあの秘密の場所。その日はとびっきり寒くて風が強かった。
ビュッ!
「わっ! 寒っ!」
僕は芝生に寝転がった。星がきれいだった。空は透き通っていた。なぜか手を空に伸ばしたいという衝動に駆られた。星に手が届きそうだった。届く気がした。
僕はこの場所を離れたくない。ずっとここにいたい。
しかし、僕は離れなければならない。更に大きくなって帰ってこなければならない。不意に涙が流れた。その涙はとても冷たく、その冷たさで更に涙が出た。
「必ず帰ってくるさ……」
その言葉はただ虚しく晩秋の空に響いた。そして、寒く鋭い風がその言葉をかき消した。
僕が学園を去る日の朝。まだ陽が昇らないうちに僕は寮を出て、駅のホームに立っていた。
僕の格好はこの学園に来たときと同じだった。寒さで体がぶるっと震えた。
いや、寒さのせいだけじゃないかもしれない。押し殺していた寂しさのせいかもしれない。陽がだんだん昇ってきてその向こうから電車の影が見えた。
あの電車に乗ったらこの学園ともお別れ。生徒たちとも会えないかもしれない。しかし、僕は行かないといけない。そういう運命だったのだろう。
「一君!」
突然後ろから僕の名前を呼ばれ僕は振り返った。そこにはぜぇぜぇと息を切らし、真っ赤な顔になっている由喜さんがいた。
「ゆ、由喜さん!?」
由喜さんはゆっくりホームに上がり僕の前に立った。
「……バカ」
「ごめん……」
「何で黙って行こうとしたのよ」
「みんなを悲しませたくなくて」
「黙って行く方が悲しいじゃない!」
由喜さんは僕の胸に飛び込んできた。
「……お願い。行かないで」
彼女の肩は小刻みに震えて、そして僕の胸の辺りは彼女の涙でぬれた。その一瞬が僕には長く思えた。このままずっとこうしていたい。そんな願いが僕の中から湧き出てきた。しかし、そういうわけにもいかない。僕はそっと由喜さんの肩を持ち、僕から離した。
「ごめん、由喜さん。でも僕は行かなきゃ」
由喜さんは何も言わなかった。僕も何も言わなかった。ちょうどその時、電車が入ってきた。
「じゃあ……」
由喜さんが僕の腕をぐっと引き寄せ、僕と由喜さんの影が重なった。
「ゆ、由喜さん!?」
「さよならは言わないで。また絶対に会いましょう!」
由喜さんは涙を拭いて精一杯の笑顔を作ってそう言った。
「そうだね、うん。また、また会おう!」
僕は電車に乗り込んだ。そして、ゆっくりと電車は動き出した。
「一君! またねー!」
電車が見えなくなるまで由喜さんは手を振っていた。そして僕は電車の座席に座り何気なく窓の外を見た。
「せんせーい!」
その声に気づき、僕は窓を開けた。その向こうには山原学園の生徒たちが電車に向かって手を振って走っていた。
「せんせーい! 黙っていくなんて水臭いぞー!」
「さよならー! せんせーい!」
「絶対また会いに来てねー!」
「先生のバカ野郎!」
僕は涙があふれてきた。そして窓から身を乗り出して大きく手を振った。
「またなぁー!」
寒い朝の空気に僕の声は大きく響いた。そうして、僕の山原学園での生活は終わった。
山々に囲まれ、広々とした森が広がる。まだ初夏だというのに蝉がうるさく鳴いている。木々の青葉は太陽の光できらきらと輝き、川は鏡のような美しい光を出す。
その雄大な大自然の中に小さな駅があった。駅のホームに女性が一人立っていた。そして小さな駅に二両編成の小さな電車がさびた鉄の音とともに入ってくる。
「山原〜、山原〜」
一人、鞄を持ち、もう夏だというのにコートを着た男がその電車から降りた。陽は高く昇り、さんさんと地上を照らしている。風が吹くたびに木が踊る。その女性はコートの男を見るとにっこりと微笑んだ。
「おかえり」
初夏の涼しい風が男を歓迎するかのように二人の間を吹き抜ける。二人は並んで歩き始めた。学園へ続く森の中の坂道に二人の足音が木々に木霊しながら響いていった――