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――another view――
非常に陰鬱な気持ちで、萩村将人は電車に揺られていた。先程、お向かいさんの娘さんである日野静に言われた『おじさん』という言葉に、まだへこんでいたのである。
いや確かに三十路を越えた男なんて、まだ十代の女子校生から見たらおじさんだろうけど、それを面と向かって言われると少しばかり傷付く。特に、ここ最近は職場じゃ若僧呼ばわりされている分、将人へのダメージは大きかった。
――そう言えば、もう三十三なのか……。
先月、誕生日を迎えた。さすがにこの歳になると、親は電話で祝い、同僚からはメール。そして当の本人は仕事で忙殺といういやはや、これぞビジネスマンの誕生日、を見事体現した。
溜め息は、満員電車の人ごみの中にかき消される。同じように陰鬱な表情を浮かべたサラリーマンが、ソーセージに詰められる肉のように狭い車両に押しこめられている。入社したての頃、こんな状態で毎日出勤しなければならないのかと思い、げんなりしたことを思い出す。今ではもう慣れてしまって、どのようなポジションを確保すれば快適に出勤できるか、なんてことまで経験的に分かる。慣れというものは恐ろしい。
がたん、と電車が大きく揺れる。降りる駅の少し手前のカーブ。いつも大きく揺れる。吊革に掴まり、将人はぐっと踏んばった。
「きゃっ」
すぐしたからそんな声がしたかと思うと、将人の胸に誰かが肩からぶつかった。ふんわりとウェーブのかかった髪が、将人の鼻先を一瞬だがくすぐる。
視線を下ろすと、見覚えのある顔だった。そして彼女も、ぶつかった相手は誰だろうと顔を上げたのか、視線がぶつかる。
「あっ」
瞬間、彼女の顔が一気にまっ赤になる。将人はやぁ、と挨拶した。
「お、おおおお、おはようございますっ!」
満員電車で、身動きも取れないような状況であるにも関わらず、彼女は勢い良く頭を下げた。そして、それは見事将人のみぞおちにきまる。
「あ、あぁ! すすす、すいません!」
突然の胸の鈍痛に顔をしかめながらも、将人は何とか笑みを作って落ちついて、と彼女に言った。しゅんと、彼女の動きが止まる。
「そんな、恐縮しないでいいんだよ。えーっと」
「……崎村です」
「ああ、そうだ。ごめんね、まだ全員の名前、覚えてなくて」
「い、いえ、そんなことないです。だって、副部長、まだうちに来て一週間しか経ってないじゃないですか」
「ありがとう。そう言ってもらえるとありがたいよ」
がたん、と電車が再び揺れた。今度は停車のための減速だ。そのまま、電車はホームに滑りこんでゆく。
「えーっと、崎村ゆずさん、だね。よし、覚えた」
駅から会社までは歩いて十分ほど。わざわざ別々で行くのもあれだから、将人はゆずと並んで会社に向かっていた。
将人はつい三ヵ月前まで、自宅から通勤するのに二時間もかかる営業所所長を務めていた。しかし、先日本社内経理部の副部長が不祥事を起こし退社。その後任として、以前から経理部部長と旧知の仲であった将人が抜擢されたのであった。三十三歳という年齢では異例の出世である。
そしてその若さ故に様々な研修を修めさせられ、一週間前、やっとのことで正式な辞令を受けとり、晴れて本社勤務となったのであった。
営業所に修業として送られてからずっと、本社へのカムバックは将人の憧れであった。想定外の戻り方であったが、それでもやはり嬉しいものは嬉しい。また、入社したての頃からいろいろと面倒を見てくれた部長と再び仕事ができることは、本社に戻るよりも将人にとって喜ばしいものであった。
本社の姿がだんだんと見えてくる。国内でも有数の商社。四井物産が彼の勤め先だ。
先程までの陰鬱とした気持ちはあっという間に吹き飛び、足取りは思わず軽くなってくる。仕事はきつい。けど、やりがいがあって楽しかった。
そこでふと、将人は視線を隣に移した。ゆずは一言も話さず、うつむいて隣を歩いていた。
――あれ、まさか一緒に歩くの、嫌がってる?
よくよく考えれば、確かゆずは入社二年目。自分とは九つも歳が離れている。やはり、彼女から見たら自分も十分おじさんで、ていうかよくある馴れ馴れしくて気持ち悪い上司の一人なのであろうか。そう考えると、一気に将人の気分は落ちこみ、また彼女に申し訳ないことをしたなという気持ちが湧き起こる。
「ああ! そう言えば、朝一番に部長が話があるって言ってたっけな。ごめんね、崎村さん。ちょっと先行きます」
「えっ?」
なんて適当なことを並べて、将人は駆けだした。きっと自分の臆測をそのまま述べても、彼女は違うと言うであろう。何て言ったって自分は上司だ。上司の手前、『そんなこと思ってませんよ』とにこやかに言うのがOLだ。逆にこっちから気を遣わないといけない。
そう言えば、営業所の副所長時代、所長が若いOLを飲みに誘い、後にセクハラで口頭処分を受けていたことを思い出した。やはり、自分の身は自分で守らないとな。などと思いながら、駆けてゆく。
その後ろで、ゆずが一人ぽつんと取り残された。彼女の表情からは、安堵と、そして少しばかり残念そうな気持ちが見てとれた。