2-1
けたたましい目覚ましの音に、私の安息の時間は破られた。
自分でセットしたものだけど、やはりこれほど忌々しいものはなかなかない。私は手探りで目覚ましを見つけ、豪快なチョップをお見舞いした。目覚まし沈黙。
かといって、二度寝するわけにはいかないので、怠い身体を何とか起こす。時刻は七時ちょっと過ぎ。身仕度とか何やらで時間がかかるから、ちょっとギリギリのライン。
冬の朝は寒い。椅子にかけていた薄いカーディガンを羽織り、部屋を出る。廊下に触れる素足から、冷たさが身体に伝わる。だから、冬の朝は嫌いなんだよね。そう心の中でつぶやき、階段を下りる。
「おはよう、静」
そう言いながらも、顔は全くこちらを向いておらず、手際良く朝食の用意をしていた。
「……おはよ、お母さん」
睡眠不足からだろうか、すこぶる不機嫌な声で、私はお母さんに挨拶した。いつもと変わらぬ光景。
食卓に腰を下ろす。今日の朝食は、林檎にヨーグルト。スクランブルエッグにトースト。変わりばえしないいつもの朝。これもやはりいつもの光景。
テーブルの上に朝食を並べて、お母さんは私の対面に腰を下ろした。
トーストにイチゴジャムを塗りたくり、私はテレビを眺めた。ニュースでは、若い女性が殺されたというニュースが流れていた。
「いやだ、痴情のもつれだそうよ。物騒ねぇ。あんたも気をつけなさいよ」
ちょっとムッとする。しかし、こういうのはいつものことなので、黙ってトーストにかじり付いた。いつもと変わらぬイチゴの甘さ。甘いものは嫌いではない。けれど、そんなに好んだりしない。どちらかというと、苦いものと組み合わせて食べるのが好きだったりする。
イチゴの甘さを舌で感じつつ、コーヒーに手に取り、少しすする。瞬間、苦さではなく、甘さが口の中にひろがった。
「わっ、お母さん! これ、砂糖入れたでしょ!」
「あー、ゴメン。ついいつも通りに……」
「もう、私のには砂糖は入れないでっていつも言ってるのに」
「次から気をつけるから、ね」
ちょろっと舌を出しておどけるお母さん。もう、あれほど私はブラック派だと言っているのに。お母さんはまだ砂糖なしじゃ飲めないんだから。
少し甘ったるいコーヒーをむりやり胃に押しこめ、私は席を立った。
「あら、全部食べないの?」
「ちょっと、今日は食欲ない」
そう言い残して、身仕度を整えに自室へ上がる。時刻は七時三十五分を指していた。
髪の毛をセットしたり、教科書とかの確認をしていたら、結構ギリギリの時刻になっていた。
家を出ると、ちょうど向かいの住人も家を出るところだった。
何ていうバッドタイミング。
お向かいさんも私に気付いたようで、何となく困った笑みを浮かべて「おはよう」と言った。
無視するのも何なので、私は軽く会釈して早足で駅の方へ向かう。すると、お向かいさんも慌てて私の後を追ってきた。
「お、おはよう」
無視無視。私はさらに歩くスピードをあげる。
「ね、ねぇ。おはようってば」
無視無視無視。すでに駆け足気味。
「こら、人が挨拶したらちゃんと返しなさい!」
さすがに腹に据えかねたようで、少しばかり怒った声になった。
私は歩く速度を落とし、男をにらみながらしぶしぶ挨拶する。
「……おはよう。萩村将人(はぎむら まさと)おじさん」
向かいに住む大手商社のサラリーマン。そして、十六歳高校生こと『マサ』くん。そんな彼の本名。萩村将人。三十三歳。独身。
――全部、お母さんに聞いたらサラリと教えてくれた。
ぶすっとした私の表情に、萩村さんはうっと声を詰まらせる。
「い、いや、そんな朝からにらまなくても。ご、御近所なんだし、仲良くしようよ。そ、それに僕はまだおじさんじゃ」
「ないって年齢でもないでしょ?」
「うぅっ」
口をパクパクして何も言わないおじさんに、私は大きく嘆息する。
黙って私の横を歩くおじさん。何だか、毎日に疲弊した元企業戦士みたいになってますよー。
しかし、仲良くしようって言われてもなぁ。なんせファーストコンタクトが最悪だったから。
あの日以来、私はあの出会い系サイトには行っていない。
いや、実はというと一度だけ行った。この目の前の『おじさん』がどうなったかを。
おじさんも同じようにあれ以来ログインしていなかったようだった。何だかなぁ。
「い、いやぁ、しかしまさか、君が日野さんところの娘さんだったとは。全然知らなかったよ」
無理に明るく振る舞おうとするが見え見えで、非常に哀れだ。私はチラリとおじさんを見て、
「……私だって向かいに三十三の独身男が住んでるなんて知らなかったわよ」
ううぅっ、とおじさんはまた言葉を詰まらせる。ふむ、『三十三』と『独身』はNGワードか。よし、心に刻んでおこう。
段々と駅が見えてきた。朝の通勤ラッシュで非常に駅前は混雑している。
「じゃ、この辺で。会社、頑張ってね、おじさん」
「だ、だから僕はまだおじさんじゃないって!」
あまりに悲痛すぎる叫びが、駅前にささやかに響く。
そんな叫びを無視して、私は混雑する駅の改札を通りぬけるのであった。
今日もまた、つまんない一日が始まる。